異説・銀座カリー物語 ―山田君から見たる銀座カリー物語―
壱
伯父の会社に勤めが決まつたのは、二十三の春だつた。入社早々、同期の鈴木君から銀座のカフエーに誘はれた。軟派な奴だと思つてゐると、入口迄来て金がないと言ふ。「ソンナ、俺もないぜ」。「ぢやあ洋食だ」と、悪怯る風も無く方向転換。美味さうにライスカリーを喰つてゐる。此奴、軟派なのかバンカラなのか。
弐
同僚の鈴木君は、ライスカリーが大好物の、一風変はつた男である。先だつても妹がタイピストをしてゐると漏らしたら、二言目には逢はせろと五月蝿い事此上無い。「逢つて如何する」。「モガがカリーを喰ふ処を見たい」。「モガではない、只のタイピストだ」。「タイピストはモガではないか」と、埒も無い鈴木君である。
参
同僚の鈴木君にせがまれて、終に妹を紹介する羽目になつた。銀座の馴染みの洋食店で会食である。鈴木君、いざアタツクかと思ひきや、上目遣いに盗み見ては赤くなるばかり。「如何だい、満更捨てた物でもなからう」と鎌を掛ければ、「イヤ、此処のカリーは実に美味い」と外らかすばかり。思ひの他の初心さ加減である。
四
同僚の鈴木君、頼まれて妹を紹介してやつたのに、何故かからつきし元気が無い。景気づけにビヤホオルに誘つたが、ジヨツキ半分で「まう帰ろう」と言ひ出す始末。終に柳の木に凭れて動かなくなつた。「如何した、此れぢやあ幽霊だろう」と肩を叩けば、涙目を当方に向けて一ト言、「惚れたのだ」。衝撃の告白である。
五
幼い頃からお転婆だつた妹は、今や銀座のタイピスト。親兄弟の説教も親類の白眼視も何処吹く風、今を時めく職業婦人である。そんな妹に同僚の鈴木君を引合せたのも何かの因縁か。「仲々良い方だわね」。「然しあの初心さ加減だ」。「アラ、其処が良いのよ、尽して下さりそうで」と、ハテサテ現代婦人の考へる事は判らぬ。
六
タイピストをしてゐる愚妹に惚れた同僚の鈴木君、一人悶々とする許りで一向に埒が開かない。あの蓮つ葉で良ければ嫁に取つて呉れとばかり、強引に銀座でデイトをさせた。「何処へ行つた」。「洋食店でライスカリーを喰つた」。「他には」。「其れだけだ」。ヤレヤレ、此で現代婦人が口説けたら、世の独身男性に苦労は無い。
七
タイピストをしてゐる愚妹が、同僚の鈴木君と銀座の洋食店でデイトしてきた。「例のカリーを喰つただけか」。「イエ、結婚を申込まれたわ」。エツ、短兵急な鈴木君。「そ、それで如何答えた!」。「お受けしたわ」。おゝ、此ぞ青天の霹靂、瓢箪から駒。「私、あの方がライスカリーを召上つてゐる処、ずつと見てゐたいの」。
八
カリーが縁で結ばれた愚妹と同僚の鈴木君、晴て祝言の席である。割鍋に閉蓋とも思つたが、意外や似合いの夫婦振り。祝膳に箸も着けずに鯱張つてゐる。酌にかこつけ冷かしに行つた。「目出度い席だ、盛大に飲め、喰へ」。「否」。「後で二人であの洋食店へライスカリーを戴きに行くの」。誠に御馳走様とは此の事であつた。
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